白鷹町の歴史、小判騒動の謎〜昭和36年の出来事から〜

 川で発見!キラキラと光り輝く …?

 昭和36年、夏の出来事。最上川で川遊びをしていた少年達が、川底にキラリと光るものを見つけました。少年が家に持ち帰り、古物商に見てもらったところ、なんと!小判であることが判明。「川で小判が発見された!」うわさを聞いた人々は川でのお宝探しに夢中になり、騒動は2週間以上も続いたとか...。

川で拾われた小判は、正真正銘の「文政小判」と呼ばれる本物。他にも「二分金」、「二分銀」が拾われ、合計で七十二両一分(現代の金額に換算して、総額約2,000万円)ものお宝が集められました。

最上川河畔の風景-青空

文政小判

二分金

二分銀

小判-手のひらにのせて、ペンとの対比 小判-複数枚 二分金 二朱銀

江戸時代の文政時代に発行された小判。
純金に見えるが、金の割合は56%と少ない。ほか、43%が銀、1%が不純物。小判1枚は約30万円相当に値する。発見された小判は埋蔵文化財とされ、白鷹町で大事に保管されている。

2枚で小判1枚分の価値

7枚で二分金1枚分の価値


当時の(昭和36年)新聞記事/しらたかムック(1991年) 掲載記事

PDFファイル山形新聞 昭和36年8月3日・朝刊 s360803_news.pdf (355kb)
PDFファイル山形新聞 昭和36年8月16日・夕刊 s360816_news.pdf (210kb)
PDFファイルしらたかムック 1991年・掲載記事 1991mook.pdf (2,079kb)

 

 一体誰が?何故川に?

さて、こんな大金がなぜ、川底に埋まっていたのか?この謎を解く、二つの説を紹介します。

1. 「西村久左衛門の隠し財産」説


 今から400年ほど前、地元の豪商・西村久左衛門が、川原近くの屋敷に財産を隠していたが、台風による川の氾濫で屋敷が流されてしまい、その財産が川に流され、沈んだのではないかというもの。西村久左衛門とは、難所と言われた最上川上流「黒滝」を、膨大な費用をかけて開削し、米沢藩の舟運に貢献した人物です。

小判が発見された当時はこの説が最も有力であるとされました。しかし、西村久左衛門が財産を隠していた時代と、拾われた小判(文政小判)が使われていた時代とは一致しないことがわかりました。

最上川河畔に建つ「黒滝開削の碑」

黒滝開削の碑

2. 「飛脚・溺死遭難事件」説


 天保元年(1830年)7月10日のこと。城下(米沢)の大和屋久左ヱ門から、荒砥の清水屋に八十両を運ぶ飛脚が鮎貝・荒砥間の最上川で溺死した。その時傍にいた本庄家中の一人が盗みの疑いで入牢となったけれども証左がなく釈放された。以上は当時本庄家用人の小嶋俊親が、その勤め書に記すところであるが、事件の詳細を欠くのは、勤務上の必要が主になっているためである。...


「歴史ウォッチングVol.58 白鷹町誕生40周年(最上川から小判ザクザク)文:荒川 幸一」より抜粋。


 この出来事は、文政小判が使われていた時代と一致し、飛脚が溺死したとされる場所も当時の渡し場に近く、飛脚が運んでいた金額と拾われた小判の金額もほぼ同じです。このことから現在、もっとも信憑性が高いとされている説です。

寛長公御代要覧

小嶋俊親の日記より <資料>


最上川の昔・きき語り/小嶋俊親の日記

PDFファイルしらたか音戯草子2 「白鷹聞庫(最上川の話)」otogishi-bunko.pdf (982kb)
PDFファイル小嶋俊親の日記より (寛長公御代要覧)kojima_nikki.pdf (102kb)・・・飛脚・溺死遭難事件について